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東京高等裁判所 昭和29年(ネ)1858号 判決

控訴人 加藤タカ 外二名

被控訴人 国 外二名

主文

本件各控訴を棄却する。

控訴人等の被控訴人国に対する当審における新たな請求を棄却する。

控訴費用は控訴人等の負担とする。

事実

控訴人等訴訟代理人は『一、原判決中被控訴人等に関する部分を取消す。二、被控訴人国との関係において、別紙第一目録記載の土地が控訴人加藤タカの、同第二目録記載の土地が控訴人加藤源太郎の、同第三目録記載の土地が控訴人加藤誠吾の、各所有に属することを確定する(当審において追加せられた新たな請求)。三、被控訴人国は(A)控訴人加藤タカに対し別紙第四目録(一)ないし(四)の建物を収去して同第一目録記載の土地を明渡し、(B)控訴人加藤源太郎に対し同第四目録(五)の建物を収去して同第二目録記載の土地を明渡し、(C)控訴人加藤誠吾に対し同第三目録記載の土地を明渡すべし(右各請求のうち被控訴人国に対し別紙第四目録の(四)の建物の収去を求める部分は当審において追加拡張せられた請求)。四、被控訴人出牛日吉は別紙第四目録記載の(一)の建物から退去してその敷地である第一目録1、の宅地二六一坪を、被控訴人神田文次郎は同第四目録記載の(三)の建物から退去して、その敷地である同第一目録記載の6、宅地一五一坪を、それぞれ控訴人加藤タカに明渡すべし。五、訴訟費用は第一、二審共被控訴人等の負担とする。」との判決並びに確認を求める部分を除き仮執行の宣言を求め、被控訴人等指定代理人及び訴訟代理人は、主文第一、二項同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述は、控訴人等訴訟代理人において「一、控訴人加藤誠吾が訴外佐藤清一から買受けその所有権取得登記を経由した別紙第三目録記載の土地は元訴外都築定治の所有であつたが、右佐藤は昭和二十三年五月二十九日これを都築から買受けその旨の所有権取得登記をしてあつたものである。二、本件各土地は控訴人等がこれが所有権を取得した昭和二十七年ないし同二十八年当時の現況において農地ではなかつた。――元来農地とは直接耕作の対象となつている土地をいうのであつて、農地に従属してこれに必要な土地と雖もそれだけは農地とはいえず、土地が農地なりや否やの判定はその土地の客観的事実状態を基礎とすべく主観的使用目的を主眼にして決すべきものでないことは勿論、本件のように十数筆に亘る場合には法律上一個の物と観念されている一筆毎に農地なりや否やを判定すべきものである。以上の見地に立ち本件各土地を一筆毎に客観的状況を基礎として直接耕作の対象となつている土地即ち農地に該当するか否かを考えると、本件各土地は控訴人等の所有権取得当時においては現況宅地若しくは山林であつて農地でないこと以下に詳述するとおりである。即ち(1) 別紙第二目録4に記載する二一九番宅地四九・八坪についてみるに、右土地は明治年間より地目も現況も宅地であり大正十年頃には高田奥蔵の屋敷があり、同人がここに居住していたものであるが、昭和十二年頃現況宅地のまま当時の地主高橋文太郎から東京高等師範学校附属小学校学友会がこれを賃借し、同附属小学校は間もなく同地上に現存する木造トタン瓦交葺平家建建坪五十二坪二合五勺の校舎(別紙第四目録(五)記載)を建築し一時教場として使用し、その余の土地部分は一部雑草が繁茂するのみで全然耕作されておらず、控訴人加藤タカが訴外都築より右土地の所有権を取得した昭和二十七年当時にあつては右教場も空家のまま放置され右土地全体は完全に宅地の状態であつたのを、本件紛争が表面化した昭和二十八年頃になつて、にわかに一部開墾して粟等の飼料穀物や草花類を植えて現況を変更したものである。そして前記教場が附近耕作地と共に田園教場として使用されていたとしても決して農耕に従属して存在するものでなく、仮りに従たるものであるとしても少くともその敷地は直接耕作の対象となつていない限り農地でないことは明らかである。(2) 同所二一五番の二七ないし二九、同所二一五番の四五ないし四七の各宅地(別紙第一目録2ないし4、同第二目録2、3、及び第一目録6記載)についてみるにこれら土地はもと高田文四郎所有当時同人の居宅、土蔵、物置があつたところで、これら建物の敷地以外の部分もいわゆる農家の宅地として庭になつていた。その後昭和十二年頃現況宅地のまま当時の所有者高橋文太郎から前記附属小学校学友会が賃借し以来二一五番の四七、二七、の土地上にそれぞれ現存の建物を築造し、二一五番の四六には肥溜を設けた。尤も右以外に昭和二十八年頃二一五番の四七の宅地の東側に三坪程の小屋を建設した。右各土地の爾余の部分は一部に雑草が繁つていたが、全く開墾耕作されることなく、或は児童運動場として、或は居宅の通路庭として使用されてきたものであつて、現在の如く一部開墾耕作せられるに至つたのは本件紛争が表面化された昭和二十八年春頃以来のことに属し、控訴人加藤タカ及び同源太郎がこれら土地の所有権を取得した昭和二十七年頃当時は庭木や大木が散在しまさに宅地の状況であつたのである。(3) 同所二二一番の一一ないし一三の山林(別紙第二目録5ないし7記載)についてみるとこれらの土地は従来から山林であり昭和十二年前記附属小学校学友会が賃借した当時以後においても栗の木十二、三本が雑然と自然状態のまま生立しこれに隣接する二一五番の四三の宅地十一坪も右山林と一体をなし殆んど同様の状況を呈していた。そして前記附属小学校も何等肥培管理することなくただ自然のままに放置してあつたもので、控訴人加藤源太郎がこれら土地を取得した昭和二十七年当時にあつては昔ながらの山林の状態であつたのを昭和二十八年頃になつて一部伐採せられ多少の作物柿桃等の果樹が植栽されるに至つたに過ぎないのである。(4) 同所二一五番の六宅地二六一坪(別紙第一目録1記載)についてみるに、この土地はもと周辺の土地と共に訴外高橋金之助の屋敷でありいわゆる農家の宅地であつたが、前記の如く昭和十二年附属小学校学友会がこれを賃借するや間もなく同地上に現存の建坪七十坪二合五勺の建物(別紙第四目録(一)記載)を建築したが、その余の部分は耕作して作物を栽培したことなく僅かにその南側の一部に草花を植えたが、これらは宅地の花壇として観賞の用に供したに過ぎず、現在は数列に亘つて花や芝が植えられている。そのうち建物に近接した二、三列は昭和二十八年頃にわかに植栽せられたもので控訴人加藤タカが右土地を取得した当時にあつてはまさに完全に宅地の現況であつた。(5) 同所二一五番の二〇宅地二三九坪(別紙第三目録記載)については控訴人加藤誠吾が昭和二十八年訴外佐藤清一からこれを買受けた当時、この土地は前記七十坪二合五勺の建物に隣接して草茫々の荒蕪状態であつて現在の如く耕作の用に供された形跡はなかつたものである。以上(2) ないし(5) に述べた各土地についても(1) の土地について述べた如く主観的使用目的をのみ云為するは誤りであるばかりでなく、長きに亘つて田園教場としての使用は中絶されていたのであり、またこれら土地及び建物は農耕に従属するものでないことは勿論、直接耕作の対象となつていない限り農地といえないことは既述のとおりである。」と述べ、被控訴人等代理人は「一、別紙第三目録記載の土地につき控訴人等主張のように訴外都築定治から訴外佐藤清一に、同人から控訴人加藤誠吾に順次所有権移転登記がなされていることのみは争わないが、実質上かかる所有権移転のあつた事実は否認する。二、仮りに控訴人等がその主張の日時それぞれ本件各土地の所有権を取得したとしても、当時いずれも現況農地であつたから、右所有権移転につき農地調整法もしくは農地法に定める許可のない以上無効であることは従前縷説したとおりであるが、控訴人等の主張に対応して本件各筆の土地につきその状況を明らかにすれば次のとおりである。(1) 二一九番宅地四九八坪の土地が明治年間から登記簿上宅地として登記され、高田某が居住していた事実は認めるが、当時官立であつた東京高等師範学校附属小学校がその学友会名義を以て賃借した昭和十二年頃には高田の住宅は既に存在せず、同校はこの土地の北側寄りに田園教場における学習の必要のため約五十坪の校舎を建築しその余の部分は全部畑として耕作され、現在に至つているものである。(2) 二一五番の二七ないし二九、同番の四五ないし四七の各土地(別紙第一目録2ないし4、同第二目録2、3及び第一目録6記載)は往昔高田文四郎の居住地であつたことは知らない。前記昭和十二年頃当時は畑であつた。現在も同番の二七の土地の東側は畑として耕作されており、二二一番の一一の竹林に接続している。また同番の二九の土地は果樹並びに草花が栽培されており、同番の四四、四五は直接耕作の用に供されており、同番の四六は大部分農地として耕作され、その南西側の一部を肥料溜として使用し、同番の四七の土地一五一坪のうち、西南角には十六坪余の農夫舎があり、一坪余の小屋はあるが、その余は大部分果樹園、野菜畑、花壇として肥培管理されている。そして以上の現況は控訴人等が右各土地の所有権と取得したという当時のそれとはその耕作使用の点においてかわるところはない。(3) 二二一番の一二、及び一三(後記同番の一一と共に別紙第二目録5ないし7記載)の土地は果樹園として当初から肥培管理され樹間に耕作可能な作物を栽培して今日に至つたものであり、同番の一一の竹林も堆肥を施しその育成を管理しており単なる自然林でない。(4) 二一五番の六の土地二六一坪には従来から約七十坪余の校舎が建設されてあつたが、その南側は花壇として利用され、しかもこれは単なる鑑賞用ではなく古くから理科教育の一部門として観察、実験のために特に肥培管理して現在に至つたものである。(5) 二一五番の二〇の土地二三九坪(別紙第三目録記載)は昭和十二年以来引続き畑として耕作され現在に至つている。以上の状況は控訴人等が主張するように本件係争が表面化した昭和二十八年頃急遽被控訴人等において作り始めたものでなく、昭和十二年賃借当初から学校教育に供する農園として使用を開始しただ終戦直後から昭和二十一、二年頃にかけて児童の交通も不便であり、二、三の要務員の労力では十分な耕作もできなかつたことは事実であるが、昭和二十二、三年頃から同二十四年頃にかけて漸次農園としての現況を復活し、全体として耕作の用に供する農地と目するに間然するところがない状況にあつたものである。三、仮りに本件各土地のうち建物の敷地部分に限り農地でなくこれが所有権移転につき知事の許可を要しないとしても、控訴人等主張の代物弁済ないし売買はもともと有効に成立していないのであるから、右所有権あることを前提とする本訴請求は失当である」。と述べた外は原判決事実摘示と同一であるから、これをここに引用する。

証拠として、控訴人等訴訟代理人は、当審において新たに甲第二十二号証、第二十三号証の一ないし五、第二十四号証を提出し、甲第二十二号証は司法書士野島二三雄の作成した公図の写であると附陳し、当審証人桜井茂、同青木伍作、同武井京、同加藤源蔵(第一ないし第三回)の各証言、並びに当審検証の結果(第一、二回)を援用し、後記当審で、新たに提出せられた乙第十二号証の一ないし二〇以下同第二六号証の一、二までの各成立を認め(乙第十六号証及び同第二十号証の一、二はその原本の存在をも認めた)、後記乙第二十一号証の一ないし四以下第二十六号証の一、二までも利益に援用し、被控訴人等代理人は当審で新たに乙第十二号証の一ないし二〇、第十三号証の一ないし一二、第十四号証の一ないし六、第十五号証の一ないし一一、第十六号証(写を以て)第十七号証、第十八号証の一、二、第十九号証の一ないし三、第二十号証の一、二(写を以て)、第二十一ないし第二十三号証の各一ないし四、第二十四ないし第二十六号証の各一、二を提出し、当審証人荻須正義、同保谷辰雄、同貫井三郎、同横木清太郎(第一、二回)、同都築定治、同浦田関太郎の各証言、並びに当審検証の結果(第一、二回)を援用し、当審で新たに提出せられた甲第二十二号証、第二十三号証の一ないし五、第二十四号証の成立を認めた外は原判決事実摘示中証拠の提出、援用、認否の欄に記載するところと同一であるから、これをここに引用する。

理由

別紙第一ないし第三目録記載の各土地が元訴外都築定治の所有であつたところ、(一)控訴人加藤タカのため同第一目録記載の土地につき昭和二十七年四月八日代物弁済による所有権取得の登記、(二)控訴人加藤源太郎のため同第二目録記載の土地中1、ないし3の三筆につき昭和二十七年四月八日代物弁済に因る所有権取得登記、及び同目録記載のその余の4ないし7の四筆につき昭和二十七年四月二十一日右都築より代物弁済による所有権取得登記を経由した訴外井口ナツ子(旧姓加藤)より控訴人加藤源太郎のため昭和二十八年二月五日附売買に因る所有権取得登記、(三)別紙第三目録記載の土地につき昭和二十三年五月二十九日右都築より売買に因る所有権取得登記を経由した訴外佐藤清一より控訴人加藤誠吾のため昭和二十八年三月二日附売買に因る所有権取得登記が、それぞれなされていること(ただし真実右各所有権の移転に関する契約が成立していたかどうかの点を除く)右各土地のうちそれぞれ別紙第四目録記載の箇所に被控訴人国所有の同目録記載の各建物が存在し被控訴人国において本件各土地全部を占有していること、(ただし建物の所在地番坪数用途については双方の主張に多少の相異はある)、被控訴人出牛日吉、同神田文次郎においてそれぞれ控訴人等主張の建物に居住し、その敷地を占拠していることは当事者間に争がない。

ところで控訴人等の本訴請求は要するに控訴人等がそれぞれ前掲主張の経緯により元訴外都築定治の所有であつた本件各土地の所有権を取得したことを前提とするものなるところ、被控訴人等は右所有権取得の原因事実を争うのみならず、もともと本件各土地は昭和十二年中官立東京高等師範学校附属小学校がこれを学童の田園教場とするため当時の所有者高橋文太郎から同校学友会名義で一括賃借し、爾来引続き学校用農園として果樹農作物を栽培し耕作の用に供し来つた農地であるにかかわらず、控訴人等の本件各土地所有権の取得には農地調整法ないし農地法に定める知事の許可がないから、既に、この点において無効である旨抗争するので先ず控訴人等がそれぞれ本件各土地の所有権を取得したという昭和二十七年ないし同二十八年当時において本件各土地がいわゆる農地と目すべき状況であつたかどうかの点について審究する。

原審証人荻須正義の証言によりその成立の認められる乙第一号証の一、二、同第四号証、同第六号証の一ないし四、成立に争のない乙第五号証の一、二、同第九号証、同第十一号証、同第十二号証の一ないし二〇、同第十三号証の一ないし一二、同第十四号証の一ないし六、同第十五号証の一ないし一一、同第二十号証の一、二(同号証の原本の存在についても争がない)、原審証人荻須正義、同都築定治、当審証人荻須正義、同横木清太郎(第一、二回)、同貫井三郎の各証言並びに原審及び当審(第一、二回)における検証の結果を総合するときは次の事実を認めることができる。即ち(一)本件係争の別紙第一ないし第三目録記載の土地は地目上は一部は宅地、一部は山林となつており、殊に二一九番の土地四九八坪やこの北西に続く地域には曽て高田某等の居宅等が存在し一部分宅地を形成したことはあつたが、昭和十二年頃にはこれら居宅も取払われ、当時官立であつた東京高等師範学校(現在国立東京教育大学)附属小学校が田園教場とするため当時の地主高橋文太郎から同校学友会名義で本件各土地を一括して賃借し、必要な施設として右地域の一部である別紙第四目録記載のような箇所にそれぞれ同目録記載の建造物を築造し(うち同目録(四)の建坪三坪位の物置小屋は昭和二十七、八年頃に設置せられたものである)、爾来学校児童の田園教場として果樹、作物の栽培等耕作の用に供してきたものであるが、昭和二十二年二月訴外都築定治が本件各土地の所有名義人になつたので、同校はその賃借耕作を継続すると共に昭和二十三年七月右都築との間に同校主事佐藤保太郎名義で本件土地を代金二十余万円で買受ける約束をし、代金完済と同時にこれが手続をするつもりでいたところ、これが手続未了のうちに控訴人等がそれぞれ前示の如く所有権取得登記を経由するに至つたものであること、及び(二)右賃借当初から控訴人等の所有権取得登記当時に至るまでの本件各土地の現況についてみるに、右期間のうち終戦前後から昭和二十一、二年にかけて一時児童の交通も不便であり、二三の要務員の労力では耕作も十分でなかつたことはあつたけれども、前示附属小学校においては当初から前示一括賃借した本件各土地を農園管理者、農園担当教官に管理せしめ教官指導の下に同校児童をして麦、馬鈴薯蔬菜類を栽培させ、また果樹学習用作物を植栽し、児童の労力の不足のところは農場管理者をして耕作せしめ、以て現在に至るまで肥培管理してきた本格的な農園であり、前示本件土地にある各施設建物も農園に附随した教室、農園管理者の宿舎、農具倉庫などであつて、空地は児童の集合の場所、通路等に使用され、いずれも前記田園教場には必要欠くべからざる施設として右各建物の敷地並びに空地ももとより他の現実に耕作の用に供せられている部分とその使用目的において不可分の一体をなし、学校農園の一部を形成していたものである。ことなどの諸般の状況を看取することができる。控訴人等提出援用の全証拠を以てするも到底前示認定を覆すに足らない。もつとも前示認定の如く従前一団地として学校農園に供されていた本件各筆の土地の一部には前示のような工作物が設置され、また現実には一部耕作されない空地があつて、なるほど右該当部分は直接には耕作の対象となつていないけれども、その使用目的並びに客観的使用状況にして前示認定のとおりである以上右敷地や空地を含めて一団地をなす本件各筆の土地全部を学校農園に供されている農地と認定するに何等の妨げとなるものでなく、従つてこれら工作物の敷地部分ないし空地もまた前示農園の一部を成すものというべくこの部分のみを特に切り離して農地でないと認定すべき限りでない。

以上認定の如く控訴人等がそれぞれ本件各土地の所有権を取得したという昭和二十七年ないし同二十八年当時において右各土地はいずれも国立学校農園として公用に供された農地であつたことは明らかであるところ、これが所有権取得につき旧農地調整法ないし農地法(昭和二十七年十月二十一日農地法の施行と共に旧農地調整法廃止となる)に定める都知事の許可を得ていないことは成立に争のない乙第九号証その他弁論の全趣旨により明白であるから、仮りに本件各土地につき控訴人等主張のような代物弁済ないし売買契約が成立していたとしても、控訴人等に有効に右各土地の所有権を取得するに由なきものといわねばならない。

控訴人等は被控訴人国がさきに本件各土地を農地でないことを前提として訴外都築定治から買受けたと主張しながら、控訴人等に対し本件土地を農地であることを前提としてその所有権取得につき都知事の許可のないことを理由にその無効を主張するのは禁反言の法理に反し且つは民法第一条の精神に鑑み法律上許さるべきでないと抗争するが、前示認定にもあるとおり前記附属小学校主事佐藤保太郎名義を以て本件各土地につき訴外都築定治との間に売買契約を取結んだとの一事は被控訴人等が本訴において右各土地が農地であると主張する妨げとなるものでなく、控訴人等の前記主張は本件の場合適切でない。

よつて爾余の争点につき判断を加うるまでもなく本件各土地がそれぞれ控訴人等の所有に属することを前提として、一、第一審以来請求にかかる(A)被控訴人国に対し別紙第四目録(一)ないし(三)の各建物を収去して同第一目録記載の土地の明渡を求める控訴人加藤タカの請求、(B)被控訴人国に対し同第四目録(五)の建物を収去して同第二目録記載の土地の明渡を求める控訴人加藤源太郎の請求、(C)被控訴人国に対し別紙第三目録記載の土地の明渡を求める控訴人加藤誠吾の請求、(D)被控訴人出牛日吉に対し別紙第四目録記載の(一)の建物から退去してその敷地である第一目録1、の土地の明渡し、並びに被控訴人神田文次郎に対し同第四目録記載の(三)の建物から退去してその敷地である第一目録記載6の土地の明渡を求める控訴人加藤タカの請求はいずれも失当としてこれを棄却すべきであつて、これと同趣旨に出でた原判決は相当であるから、民事訴訟法第三百八十四条に則り本件各控訴を棄却すべきであると共に、二、当審において新たに追加拡張せられた(A)被控訴人国との関係において別紙第一ないし第三目録記載の土地がそれぞれ控訴人等の所有に属することの確定を求める控訴人等の請求及び(B)被控訴人国に対し別紙第四目録記載の(四)の建物の収去を求める控訴人加藤タカの請求も前叙と同一理由により失当として棄却を免れず、この部分については控訴裁判所は事実上第一審として裁判をなすべきであるから、特に主文第二項においてその旨を明らかにした次第である。

よつて控訴費用の負担につき民事訴訟法第九十五条、第八十九条、第九十三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 柳川昌勝 坂本謁夫 中村匡三)

物件目録

第一目録(登記簿上控訴人加藤タカ所有名義の土地)

1 東京都北多摩郡保谷町大字下保谷字北新田二一五番の六、宅地二六一坪

2 同所同番の二七、同 一七七坪

3 同所同番の二八、同 二〇坪

4 同所同番の二九、同 五九坪

5 同所同番の四三、同 一一坪

6 同所同番の四七、同 一五一坪

第二目録(登記簿上控訴人加藤源太郎所有名義の土地)

1 同所二一五番の四四、宅地 四四坪

2 同所同番の四五、同 一九坪

3 同所同番の四六、同 九坪

4 同所二一九番、同 四九八坪

5 同所二二一番の一一、山林一畝四歩

6 同所同番の一二、同 三畝二歩

7 同所同番の一三、同一畝二二歩

第三目録(登記簿上控訴人加藤誠吾所有名義の土地)

1 同所二一五番の二〇、宅地二三九坪

第四目録(建物)

(一) 東京都北多摩郡保谷町大字下保谷字北新田二一五番の六所在(登記簿上控訴人タカ所有の前掲1所在)

一、木造トタンセメント瓦交葺平家建家屋 一棟

建坪七十坪二合五勺

(但しこの建物の内東側約十五坪は被控訴人出牛日吉占有)

(二) 同所二一五番の二七所在(同上2所在)

一、木造トタン葺一部煉瓦造平家建小屋 一棟

建坪十八坪

(三) 同所二一五番の四七所在(同上6所在)

一、木造瓦葺平家建居宅 一棟

建坪十五坪(但し被控訴人神田文次郎占有)

(四) 同所二一五番の二九及び同番の四七に跨り所在(同上4及び6所在)

一、木造トタン葺平家建物置 一棟

建坪三坪

(五) 同所二一九番所在(登記簿上源太郎所有の前掲4所在)

一、木造トタン瓦交葺平家建家屋 一棟

建坪五十二坪二合五勺

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